1300年の歴史を持つ日本三大和紙「美濃和紙」の魅力
美濃和紙の紀元は、およそ1300年前、天平9年(737年)ころ。奈良時代の「正倉院文書」の戸籍用紙が美濃和紙であったことが記されています。
京都の貴族や僧侶たちの手紙や記録の中に美濃の紙の名が度々登場するそうです。
和紙は、パルプを元にして作る洋紙と違い、「楮(コウゾ)」「三椏(ミツマタ)」「雁皮(ガンピ)」という木の皮の繊維を材料にして作る紙のことを言います。
民間でも広く美濃和紙が使われるようになったのは、室町・戦国時代の文明年間(1468~1487年)以後。
美濃の守護職「土岐氏」は製紙を保護奨励し、紙市場を大矢田に開き、紙市場は月に六回開かれたので、“六斉市”と呼ばれ賑わいました。
この紙市によって、近江の枝村商人の手で、京都、大阪、伊勢方面へも運ばれ、美濃の和紙は広く国内に知られることとなり、大矢田の紙市は、天文9年(1540年)年には上有知(美濃町)に移ってきました。
当時戦乱が続いており、上有知(美濃町)より長良川を利用すれば一夜にして交易港である桑名の港に到着できるうえ、運送は便利で危険が少なく安全であったからです。
時は経ち、慶長5年(1600年)、徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川畔に小倉山城を築城しました。慶長11年(1606年)ごろには、現在も残る町割が完成します。
さらに、現在川湊灯台として知られる「上有知湊」を開きます。上有知湊は、船運による物資集散の拠点として、また、和紙を中心とした経済活動の拠点と成長していきます。金森長近の没後の元和元年(1615年)には、上有知藩領から尾張藩領となります。
そして、江戸時代には藩の保護や一般需要の増加もあり、美濃和紙は幕府・尾張藩御用紙となっていきました。
明治維新により、それまで紙漉き業に必要だった免許の制限がなくなり、製紙業が急増しました。国内の需要の高まりや海外市場の進出などもあり、美濃は紙と原料の集積地として栄えました。
しかし、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資不足、人材不足などが生産に大きく影響し、陰りを落とすようになっていきました。
そして、大正ころからは機械抄きが導入され、戦後には石油化学製品の進出が続きます。美濃では日用品を主とした素材を中心に生産していたため、これらの打撃はとても大きいものでした。昭和30年には1200戸あった生産者が、昭和60年には40戸に減ってしまいました。
現在では、機械による紙製造に押されて、手漉きで紙漉きをされているのは、20数戸になってしまいました。
しかし伝統を残すため、伝統保存、継承をしようと地元を上げて取り組んでいます。